無常(帰依龍照書)
法話
和(帰依龍照書)
法話①
『重箱の箸の置き方(帰依薫龍)』
浄土真宗本願寺派(西本願寺〈京都府〉)の教義・教学、布教・伝道、儀式・法要を所依に、祖父の球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈沖縄市〉)・第17代住職は、ハワイから沖縄にあって、念仏相続の日々でした。
これは、岡山から沖縄にあって、父の当院・第18代住職も同様です。
当院は、琉球・沖縄の儀式・法要、慣習・作法を土徳と位置づけ、地域の次世代の方々、率先して、若者達と共に、その伝統文化を畏敬しています。
ここに、小職も、先人に倣い、浄土真宗本願寺派、琉球・沖縄を心の糧として、南無阿弥陀仏の念仏を申し上げつつ、仏道精進の生涯であろうと決意するものです。
さて、沖縄では、県外と異なり、仏壇・墓などで、重箱を供物する慣習・作法があります。
一般的な重箱と相違ありませんので、私達の想像に難くない、あの重箱です。
重箱の置き方、つまり、供物の慣習・作法には一言あるのですが、そこに付随する箸の置き方にも、慣習・作法があることはあまり知られていません。
今回は、その箸の慣習・作法について、解説させていただきます。
主だったものを3点ほど、紹介させていただき、諸説ある、その理由を共に考えていきたいと思います。
1、『置き箸』・『錘箸』
この箸の置き方は、合理的であるといわれています。
重箱の中央に乗せる置き方ですが、通常の箸先が、左側向きに対して、右側向きになるのが特徴です。
私達の世界、今生の方々が召し上がるのではなく、故人様の世界、後生の方々が召し上がるためであると、法事などの経験を多く積まれた方々は説明されています。
だから、箸先が逆になるというわけです。
箸を重箱に乗せるので、『置き箸』との名称は、容易に理解できます。
一方、『錘箸』とは、これも沖縄固有の慣習として、重箱の中央に乗せる打紙という紙銭の祭具が、風雨などで飛ばされないように、箸を錘の代用として乗せることに由来するといわれています。
箸を重箱の中央、真横に置く理由は、沖縄の祭具である三・五七を表現しているといわれています。
その祭具が、薄でできていることから、切れ物・刃物で、魔物・嫌物を追い払う代用として、箸を見立てているのだとか。
三・五七があると、食べ物が腐りにくいという考え方を併用している点も、現代の私達からして、実に、興味深い作法であると思います。
2、『配膳箸』・『食事箸』
この箸の置き方は、日常的であるといわれています。
前卓という、仏壇の机に対する専門的な名称があります。
沖縄では、この前卓のことを前卓といい、漢字表記は、前卓と同様です。
重箱を供物する、前卓の上に乗せる置き方ですので、『置き箸』・『錘箸』のように、重箱の中央には乗せません。
重箱の下に置く、このような表現が理解しやすいかと思います。
この置き方が、日常の食事の配膳作法と一緒であることから、『配膳箸』・『食事箸』の名称になったといいます。
私達と、同様の箸の置き方を選択することにより、故人様を身近に感じられるようにとの畏敬の念が込められているのでしょう。
3、『斜め箸』・『掛け箸』
この箸の置き方は、儀式・法要的であるといわれています。
重箱の右上角・左上角のいずれかに、箸を斜めに乗せるため、『斜め箸』の名称になったといいます。
また、重箱の上には乗せず、側面に立て掛ける置き方から、『掛け箸』の名称になったともいいます。
『斜め箸』・『掛け箸』は、斜めに乗せる、立て掛けると、多少、箸の置き方に相違がありますが、双方とも、選択する理由として、四角い重箱の角を落とす意味で、箸を斜めに置いたり、箸を立て掛けるといわれています。
ここから、拡大解釈として、四角い角を落として、丸い形に近づけることは、満月を表現して、詰まるところ、旧暦一日・旧暦十五日の十五夜に由来するともいわれています。
このことは、平御香の二枚半という15本御香に関連するといわれています。
また、餅重の白餅15個も同様です。
『置き箸』・『錘箸』・『配膳箸』・『食事箸』・『斜め箸』・『掛け箸』、沖縄では、俗に、地域性と表現しますが、箸の置き方、一つにしても、このような地域性・家庭性があるということに、故人様を畏敬する奥深さを痛感するものです。
今後、琉球・沖縄の儀式・法要、慣習・作法を法縁として、阿弥陀如来様の仏縁を布教する日々でありたいと願って已みません。
和(帰依龍照書)
法話②
『仏壇の扉の開閉(帰依薫龍)』
昨今、沖縄の宗教事情に詳しくない方々から、
「沖縄は、祖先崇拝ですから」
「沖縄には、檀家制度がないですから」
などの意見を耳にします。
一方、沖縄の宗教事情に詳しい方々からは、
「浄土真宗では、どのように考えるのですか?」
「うちは、昔から、球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈沖縄市〉)ですから」
などの意見も耳にします。
当院の歴史を考慮しましても、仏法不毛の地と、『沖縄しんらん音頭』に謳われた当時からして、早や、60年以上の歳月が経過した現在では、歴代住職の尽力もあって、門信徒制度が確立されつつあります。
当院にあって、寺院・門信徒との関係は、非常に良好です。
参拝者・相談者・観光客などに恵まれて、浄土真宗本願寺派(西本願寺〈京都府〉)の教義・教学、布教・伝道、儀式・法要、また、琉球・沖縄の儀式・法要、慣習・作法を語り合えること頻り。
法務・寺務も充実して、住職冥利に尽きる日々を送らせていただいています。
琉球・沖縄民間霊媒師の方々とも、学問的分野で、有効な関係が構築できています。
これは、沖縄県内の寺院にあって、稀有な事例とのことです。
さて、沖縄には、御元祖・仏壇・位牌という沖縄方言があります。
直訳は、御先祖・仏壇・位牌ということですが、意訳は、総じて、仏壇を表現しています。
「浄土真宗では、御先祖という言葉を用いません。また、位牌という仏具も用いません。過去帳を用います」
と伝えますと、沖縄では、非常に驚かれます。
私達の布教は、ここから出発しています。
『否定することから、法縁を頂戴するのではなく、肯定することから、法縁を頂戴する』
父の当院・第18代住職が、常々、よく話している格言です。
色々な角度からの表現がありますが、このような場合、仏壇の説明を申し上げています。
県外の仏壇の多くは、観音開きの扉が一般的です。
浄土真宗でも、その傾向があると思います。
沖縄の仏壇の多くは、引戸の扉が一般的です。
具体的に、引戸とは、仏壇の正面に4枚の扉があり、形状として、ガラス張りの格子戸になっています。
この引戸には、暗黙のうちの慣習・作法があるといわれています。
以下、4点に分類します。
1、終日引戸開口法
終日引戸開口法とは、仏壇の引戸を終日、左右に引き寄せて、仏壇を開けた状態にすることをいいます。
この作法は、今生・後生が、相互に、仕切りなく繋がり合い、子孫・御先祖の親しい関係を表現しているという考え方が根底にあります。
2、日中引戸開口法
日中引戸開口法とは、仏壇の引戸を日中、左右に引き寄せて、仏壇を開けた状態にすることをいい、夜間は、中央に戻り寄せて、仏壇を閉めた状態にすることをいいます。
この作法は、日中・夜間の通1日を今生・後生が共有し合い、子孫・御先祖の親しい関係を表現しているという考え方が根底にあります。
3、儀式・法要引戸開口法
儀式・法要引戸開口法とは、仏壇の引戸を平生、中央に戻り寄せて、仏壇を閉めた状態にすることをいい、儀式・法要では、左右に引き寄せて、仏壇を開けた状態にすることをいいます。
この作法は、平生は、今生から、後生を拝謁することなく、故人様の遺徳を畏敬して、儀式・法要では、今生・後生が、相互に、仕切りなく繋がり合い、子孫・御先祖の親しい関係を表現しているという考え方が根底にあります。
4、引戸撤去法
引戸撤去法とは、仏壇の引戸を撤去して、さらに、上記の終日引戸開口法を徹底する考え方が根底にあります。
このように、沖縄の仏壇の慣習には、多種多様な考え方が根底にあります。
まさに、地域性・家庭性、加えることの、個人性にまで拡大解釈されることもあります。
小職は、琉球・沖縄の儀式・法要、慣習・作法の事例を誘因に、浄土真宗の本尊・阿弥陀如来様を迎えることの大切さを布教させていただいています。
和(帰依龍照書)
法話③
『受け継がれていく、「ありがとう」(帰依龍照)』
今年も、お盆の季節がやってきます。
忘れもしない、平成8(1996)年、夏のことです。
中学時代の先輩から、自宅に一本の電話が入りました。
「龍照、今、娘が亡くなった」
野球部の主将として、私達、後輩にいつも優しく接してくれたS先輩の震える声に、
「ちひろちゃんは、よく頑張りましたね」
と私までもらい泣きしました。
S先輩ご夫妻には、中学時代から、よく面倒を見ていただき、30代になった今でも、お付き合いさせていただいています。
当時の二人は、雲の上の存在。
とてもカッコイイ、理想のカップルでした。
私は、お二人と親しかっただけに、長女のちひろちゃんが病気療養中だったこともよく知っていました。
ちひろちゃんは、当時、小学3年生でした。
瞳がキラキラ輝いた、とてもかわいい小さな女の子でした。
悲しみのお通夜にお参りすると、それまで気丈だった奥様から大粒の涙がこぼれました。
「龍照、ちひろの供養をお願いね」
そう言って、私の肩を何度もたたかれるのでした。
S先輩ご夫妻の悲しみを察して、その日は遅くまで棺の近くで一緒にお通夜しました。
昔、師匠からうかがった歌です。
『仮ノ世ノ、仇ト儚キ身ヲ知レト、教エテ先立ツ、子ハ菩薩ナリ(詠ミ人知ラズ)』
親が子を育て、子が親を弔うのが世の習いなのでしょう。
しかし、それが逆になり、子が親を育て、親が子を弔うこともあります。
人生の無常を親に教えて、先立つわが子は、わが子ながら、尊い菩薩様のようであると詠まれたこの歌が、今でも私の心の中に残っています。
S先輩ご夫妻は、少し落ち着かれたのでしょう。
ゆっくりと、ちひろちゃんとの思い出を私に聞かせてくれました。
ある日、ちひろちゃんが通う小学校で防災訓練が行われたそうです。
警報のベルが鳴り、クラス全員が避難しながら、校庭に集合しました。
「先生、ちひろちゃんがいないよ」
しばらくして、親友のまなみちゃんが気づきました。
みんなは、急いでちひろちゃんを探しました。
「大丈夫だよ」
校庭の裏庭から、大きな声がしました。
たけし君です。
たけし君は、ちひろちゃんを背負っていました。
病気がちで、みんなのように早く歩けないちひろちゃんを、たけし君が優しく負んぶしてくれていたのでした。
たけし君は、クラス一番の乱暴者で、勉強も大嫌いです。
みんなからは、『ジャイアン』と呼ばれていました。
たけし君は、ちひろちゃんを降ろすと、何も言わずにクラスの列へ戻りました。
「少々、勉強ができなくても、男は優しい心が一番だよな」
とS先輩。
「あれから、ちひろはね、たけし君のお嫁さんになるって、いつも言っていたのよ」
と奥様。
ちひろちゃんは、優しいたけし君が大好きだったのです。
ちひろちゃんのお葬式の日、クラスを代表して、たけし君がお別れの手紙を読みました。
「ちひろちゃんを負んぶして、階段を降りているとき、ちひろちゃんは、とってもちっちゃいのだなと思いました。ずっと、黙ったままだったけど、校庭で降ろしてあげたとき、ちひろちゃんは、『ありがとう』と言ってくれました。僕は、ちひろちゃんに当たり前のことをしてあげただけなのに。とても恥ずかしかったけど、でも気持ちよかったです。ちひろちゃんとは、さよならだけど、僕は、これからちひろちゃんのように、『ありがとう』と素直に言える人になりたいと思います。ちひろちゃん、『ありがとう』」
私は、たけし君のお別れの手紙に、僧侶の立場を忘れて、涙が止まりませんでした。
仏説阿弥陀経にある、
『舎利弗、衆生聞者、応当発願、願生彼国、所以者何、得与如是、諸上善人、倶会一処(舎利弗ヨ、コノヨウナアリサマヲ聞イタナラ、ゼヒトモコノ国ニ生レタイト願ウガヨイ。ソノワケハ、コレラノスグレタ聖者タチト、トモニ同ジトコロニ集ウコトガデキルカラデアル)』
の御文がとてもありがたく思えます。
S先輩ご夫妻やたけし君が、
『諸上善人、倶会一処(コレラノスグレタ聖者タチト、トモニ同ジトコロニ集ウコトガデキルカラデアル)』
の御文ように、また、ちひろちゃんと浄土で再び出会えることを心の中で念じずにはおれませんでした。
受け継がれていく、『ありがとう』。
早いもので、今年のお盆は、ちひろちゃんの七回忌にあたります。
『琉球新報・週刊レキオ』平成14(2002)年8月8日掲載
和(帰依龍照書)
法話④
『500円と100円と10円(帰依龍照)』
恩師である、F先生の講義に感銘して、私の教育講演会では、オープニングにこの質問を拝借しています。
「500円と100円と10円、どれが一番価値のあるお金ですか?」
わかりきった内容だけに、聴講者の反応はイマイチです。
しばらくしますと、会場から見かねてでしょう。
「500円」
と大きな声が聞こえてきます。
「次は、どのお金ですか?」
「100円」
「最後は?」
「10円」
ご協力ありがとうございます。
貨幣の価値では、これで正解です。
でも、ときには、この順番が入れ替わることもあると、F先生は話されていました。
私なりに、味わっています。
とある街に、30代の夫婦が住んでいたそうです。
二人の間には、玉のようなかわいい赤ちゃんが授けられて、3人、仲良く生活していました。
赤ちゃんは、男の子でした。
両親の温かい愛情に包まれて、何不自由なく育ちました。
男の子が、5歳になった頃、少し気になることもあり、家族で病院を訪れたそうです。
「お母さん、 お父さん。息子さんは、少し言葉が遅いようですので、こちらの施設で、しばらく専門の教育を受けられてはいかがでしょうか?」
先生からの突然のアドバイスに、両親は驚きましたが、この全寮制の施設の言語指導教育に、全幅の信頼を寄せることにしました。
男の子は、その日から努力しました。
先生や友達にも、いっぱい恵まれました。
毎日、たくさんの言葉を覚えて、たくさんの会話もできるようになりました。
2年後のある日、男の子のクラスは、算数の時間でした。
「500円と100円と10円、もらってうれしいのはどれかな?」
担任の先生からの質問に、クラス中が競って手を挙げました。
「500円だよ」
「答えたら、もらえるの?」
「この質問、簡単すぎる」
多くのクラスメートが答える中、一人だけ下を向いている男の子がいました。
そうです、頑張っている、あの男の子です。
「先生、僕は10円だと思う」
「500円じゃないの?」
先生は、少し驚きました。
それは、男の子が、算数の計算をキチンとできる子だからです。
「どうして、10円なの?」
「だって、10円あれば、お母さんの声が聞けるから」
先生にしてみれば、予想もしなかった答えでした。
男の子は、一日を頑張り、宿題を終える毎晩8時くらいになると、事務所前にある公衆電話から、自宅に連絡をしていたのだそうです。
「母さん、嫌いなニンジンが食べれるようになったよ」
「父さん、今日、野球をしたよ」
子供の電話ですので、特別な用件があるわけではありません。
大好きなお母さんとお父さんの声を聞くのが、男の子の一日の楽しみだったのでしょう。
ときには、温かくなるまで握りしめた10円を、公衆電話に入れることもあったのではないでしょうか。
今は、携帯電話の時代ですが、以前の公衆電話はピンク色でした。
500円や100円は、残念ながら使えません。
当時は、10円しかダメでした。
「そうか、もらってうれしいのは、500円だけじゃないのだね」
先生は、男の子の頭を優しく撫でてあげたそうです。
世の中には、多くの価値観があります。
仏説無量寿経にある、
『設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法(ワタシガ仏ニナルトキ、スベテノ人々ガ心カラ信ジテ、ワタシノ国ニ生レタイト願イ、ワズカ十回デモ念仏シテ、モシ生レルコトガデキナイヨウナラ、ワタシハ決シテサトリヲ開キマセン。タダシ、五逆ノ罪ヲ犯シタリ、仏ノ教エヲ謗ルモノダケハ除カレマス)』
の御文がとてもありがたく思えます。
この御文は、『本願成就文』といい、仏説無量寿経の中で、一番、大切な『信楽(信心)』が説かれています。
私にとって、一番、大切なものは何でしょうか?
本当の価値って、何でしょうか?
F先生の講義から、忘れてはならない人間としての心のあり方を教えていただいた思いがします。
『琉球新報・週刊レキオ』平成14(2002)年10月25日掲載
和(帰依龍照書)
法話⑤
『恩ハ石ニ刻メ、恨ミハ水ニ流セ (帰依龍照)』
昭和43(1968)年生まれの私は、今年37歳になりました。
不惑の声を聞くのも、間もなく時間の問題です。
昔、修行中の頃、師匠に、
「不惑とは、40代になると惑わなくなるという意味なのでしょうか?」
と畏れながら教えを請うたことがあります。
畏れながらとは、努力や思案をせず、安易に答えを求めることを師匠は、一番、嫌われたからです。
「私の経験では、人間、40代にあって、人生も折り返し地点に近くなると、なお一層、惑う機会が増えることの戒めとして、惑いやすいから惑わずの意味で、この格言があるのではないかと思います」
との言葉を賜りました。
未熟な私からすれば、師匠の言葉は、いつも逆転の発想に思えました。
惑わないから不惑と思っていたものが、惑いやすいから惑わずの意味で不惑とは。
思いもよらない助言を賜り、これこそ本当の意味で戸惑ったようなものでした。
それから私の価値観は、少しづつ変わり始めたように感じました。
師匠と兄弟子達の会話は、毎回、トンチがきき、いつも物事の的を得ていました。
横で聞いていて、楽しかった記憶があります。
深夜の自室では、昼間に聞いた多くの会話をメモ帳に落としながら、布教の材料として、自分なりにその意味を考えてみたものでした。
『恩ハ石ニ刻メ、恨ミハ水ニ流セ』
の名言も、そのような環境で知り得た格言でした。
師匠から弟子へ、弟子から孫弟子へと、代々、語り継がれてきたこの格言を、私は生涯の座右の銘にしています。
今では、
『情掛流水、恩受刻石(掛ケタ情ハ水二流シ、受ケタ恩ハ石二刻ム)』
と私なりにアレンジして、帰依家の家憲(家訓)にしています。
数年前、宜野座村教育員会主催の『学習講座』に、講師として招待されました。
教育長から私にと、この
『恩ハ石ニ刻メ、恨ミハ水ニ流セ』
の格言を短冊に認めてくださったことが、とても嬉しかった記憶があります。
「この格言を体得しているからこそ、住職の座右の銘なのでしょう」
と講座前の講師の紹介で、あらためて教育長から褒めていただいたのですが、ここで、師匠からの受け売りをひと言。
「ともすれば、『恩ハ水ニ流ス、恨ミハ石ニ刻ム』私であるからこそ、心の戒めとして、この格言を座右の銘にしています」
と。
師匠に出会えたお蔭で、座右の銘に出会えた私。
仏説阿弥陀経にある、
『執持名号(名号ヲ心ニトドメ)』
の御文がとてもありがたく思えます。
南無阿弥陀仏(六字名号)の念仏を心に留める人生と同じように、座右の銘を心に留める人生は、私の心自体も豊かにすると感謝しています。
『琉球新報・南風』掲載日不明