浄土真宗

()(じょう)()()(りゅう)(しょう)(しょ)

(じょう)()(しん)(しゅう)

(じょう)()(しん)(しゅう)とは、(しん)(らん)(しょう)(にん)(しゅう)()とする(しゅう)()のことをいいます。

(だい)(じょう)(ぶっ)(きょう)である(じょう)()(しん)(しゅう)は、(じょう)()(しん)(こう)()()()()(そう)(もと)づく()(ほん)(ぶっ)(きょう)です。

(じょう)()(しん)(しゅう)は、(かま)(くら)()(だい)(ほう)(ねん)(しょう)(にん)(じょう)()(しゅう)(しゅう)())を()(あお)ぐ、(しん)(らん)(しょう)(にん)により(ひら)かれました。

しかし、(げん)(みつ)には、(じょう)()(しん)(しゅう)(しん)(らん)(しょう)(にん)(ひら)かれたわけではなく、その(ぼつ)()(おお)くの()(てい)により、(きょう)(だん)として(はっ)(てん)したという(れき)()(てき)()(じつ)があります。

その(こん)(きょ)として、(しん)(らん)(しょう)(にん)(ちょ)(しょ)にある(じょう)()(しん)(しゅう)とは、(しゅう)(めい)としての(じょう)()(しん)(しゅう)ではなく、(じょう)()(あきら)かにする(しん)(じつ)(おし)えのことをいい、()(まで)(ほう)(ねん)(しょう)(にん)から(つた)えられた(しん)(じん)(おし)えのことをいいます。

つまり、(しん)(らん)(しょう)(にん)(どく)(りつ)(かい)(しゅう)()()はなく、(ひとえ)に、(ほう)(ねん)(しょう)(にん)からの(おし)えを(うたが)いなく(しん)じて()まない、そのような(しょう)(がい)であったことが(はい)(さつ)できます。

(しゅう)(めい)としての(じょう)()(しん)(しゅう)は、(れき)()(てき)(けい)()から、(めい)()(しょ)()(しゅう)(きょう)(だん)(たい)(ほう)(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)(ほう))により、(しん)(しゅう)10()(なか)、9()(せい)(しき)(めい)(しょう)(しん)(しゅう)として、(ほう)(りつ)(かん)()しない(しゅう)()(めい)(じょう)()(しん)(しゅう)としています。

(ゆい)(いつ)(じょう)()(しん)(しゅう)(ほん)(がん)()()西(にし)(ほん)(がん)()(きょう)()()〉)のみが、(せい)(しき)(めい)(しょう)(しゅう)()(めい)(じょう)()(しん)(しゅう)としていることは、()(じつ)(てき)(きょう)()(てき)(かん)(てん)からも(とく)(もく)するに(あたい)しています。

(じょう)()(しん)(しゅう)は、()()に、(いっ)(こう)(しゅう)(もん)()(しゅう)などと(ぞく)(しょう)された()(だい)もありますが、(へん)(けん)(てき)()(ぶん)から(げん)(ざい)では使()(よう)されていません。

(じょう)()(しん)(しゅう)(こん)(ぽん)(せい)(てん)は、(けん)(じょう)()(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しょう)(もん)(るい)です。

(しん)(らん)(しょう)(にん)(だい)(ひょう)(てき)(ちょ)(しょ)である、(けん)(じょう)()(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しょう)(もん)(るい)は、(りゃく)(しょう)して(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)ともいいます。

(けん)(じょう)()(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しょう)(もん)(るい)にある(じょう)()(しん)(しゅう)(きょう)()は、()()()(にょ)(らい)(ほん)(がん)(りき)により、(しゅ)(じょう)という()きとし()けるもの、すべてが(びょう)(どう)(すく)われる、(ほん)(がん)(りき)()(りき))の()(こう)(ちゅう)(しん)としています。

(ほん)(がん)(りき)とは、(しん)(じつ)(おし)えの(だい)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)(だい)(きょう))にあり、()()()(にょ)(らい)(がん)(ぎょう)()(そく)して、()()()()(えん)()する(こう)(みょう)()(りょう)寿(じゅ)(みょう)()(りょう)(ほとけ)となり、(しゅ)(じょう)(すく)うと()かれています。

このことは、(けん)(じょう)()(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しょう)(もん)(るい)(ぼう)(とう)に、ゴータマ・シッダッタ(仏陀)(ぶっ)(きょう)(かい)())の(しゅっ)()(ほん)(がい)である(だい)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)(しん)(じつ)(おし)えであると()き、()()()(にょ)(らい)(ほん)(がん)()(じゅう)(はち)(がん)(なか)(じゅう)(はち)(がん))・()()()()()(ぶつ)(みょう)(ごう)により、(しゅ)(じょう)(すく)われると(めい)()されています。

また、(じょう)()(しん)(しゅう)(きょう)()の中、(あく)(にん)(しょう)()(せつ)(じゅう)(よう)()()()()(そう)です。

(ちょく)(やく)すると、(あく)(にん)こそが、()()()(にょ)(らい)(ほん)(がん)によって(すく)われる、(しゅ)(しょう)(こん)()という()()になります。

(じょう)()(しん)(しゅう)(ぜん)(あく)とは、(ほう)(りつ)(てき)(どう)(とく)(てき)(ぜん)(あく)()(てき)するものではなく、また、(いっ)(ぱん)(てき)(じょう)(しき)(てき)(ぜん)(あく)()(てき)するものでもないということです。

(しん)(らん)(しょう)(にん)(あく)(にん)(しょう)()(せつ)では、()()()(にょ)(らい)(すく)いの(たい)(しょう)である(ぜん)(あく)(かん)(ちゅう)(しん)となります。

つまり、()(けん)(てき)()(じゅん)からすれば、()(ひと)(わる)い人、(ぜん)(にん)(あく)(にん)(そん)(ざい)しますが、()()()(にょ)(らい)(ぶつ)(がん)(りき)からすれば、すべての(しゅ)(じょう)(あく)(にん)であるということです。

(たと)えば、(ぜん)(おも)(おこな)ったこと((いん))が、(えん)によって、(ぜん)をもたらすこと((ぜん)())もあれば、(あく)をもたらすこと((あく)())もあります。

どのような(ぜん)()()むか、(あっ)()()むか、(はん)(だん)できないものこそ、(ぼん)()(あく)(にん)といいます。

その(あく)(にん)こそが、()()()(にょ)(らい)(すく)いの(たい)(しょう)であるとの(ほん)(がん)は、()()()()()(ぶつ)(みょう)(ごう)になり、(まよ)える(しゅ)(じょう)(いた)(とど)くとされています。

なお、(きゅう)(よう)()(コザ(ざん) ()(おう)(いん) (きゅう)(よう)()(おき)(なわ)()〉)の(しゅう)()は、(しん)(らん)(しょう)(にん)(かい)(さん)とする(じょう)()(しん)(しゅう)(ほん)(がん)()()です。

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